2010/09/10

too shy

いまだに、はじめて会った人はおろか、
以前からの知り合いにも自分から、
『いやぁ、私いま音楽やってるんです。歌ってるんです。』っていうことが言えない。
なんだか…猛烈に恥ずかしい。笑
たまに、『のばらさんの歌が好きです!』と言ってもらえると、
『え?あ?え?ホント?わぁ・・・嬉しい・・・
ありがとう・・・何か・・・何だか・・・すみません。。』
と思う。笑
なんなのでしょうね。


実をいうと、もともと『歌う』という予定など全く人生設計に組み込んでなかった。
今こんなことになっているとはとても…思ってもみなかった。
私は小さい頃から、自分は美大に進学し、
その後は皆が憧れるバリバリのキャリアウーマンになり(多分デザイナー)、
似合いすぎるスーツ姿で丸の内らへんを闊歩して、
5年くらい働いたところで良く頭の切れるかっこいい上司の男性と結婚して幸せになる、
くらいの夢を見ていた。
いやぁ、アホだった。現在プランは狂いまくっている。


ビダイに行きたいだなんてませたことを明確に思いはじめたのは中学生の頃だった。
通っていたド田舎の中学校は反吐が出そうなほど毎日退屈だった。
私は何を間違ったのかうっかり入部してしまった、厳しすぎるソフトボール部の練習を日々嫌々とこなし、
ちょっと遅れた流行を懸命に追いかけて均一化していく同級生を斜めに見ながら、
常になんだかうんざりしていた。
とにもかくにも冷めた人間だった。


ただ、普段は仮病なんてものをザラに使いながら嫌なことはうまく逃れていたけれど、
美術の授業だけは好きだった。
今でも覚えてる、毎週水曜の3・4限、これだけは熱が出ても行った。
絵を描いている時だけは全てを忘れられた。全身に生命力がみなぎった。
こんな田舎のつまらん集落は早々と自力で出て行ってやる、とこっそり誓っていた心に、
絵を描くことは道を作った。


親に特別相談することもなく、高校は美術科のある遠方の私立高校を選び、
一日も休むことなく3年間通いきる。
家から片道2時間だった。朝がつらかった。さらに学費がハンパなかった。
それでも美大進学率で有名な学校だったから選んだ。独断で。
実際高校ではスパルタもよいところという美術指導で、先生に泣かされるなんてよくある事だった。
でも私は厳しくとも、とても楽しかった。
そして東京行きの切符を手に入れる。


大学に選んだのは映像学科だった。
高校時代、美術をやりながらバンドをやり、
ミシェルゴンドリーと高木正勝を崇拝していた私にはとても興味深い分野だったからだ。
まぁでも大学に入ったら遊びの音楽はやめて映像制作を集中して頑張ろうと決めていた。
一人暮らしの部屋にギターは場所をとるし、持っていくのやめようと思っていた。
だってまたトンデモナイ学費だし、映像の勉学にはげまなくっちゃ なんて。
またしても独断でムサビという天下の高学費大学を選択していた。


だがしかし、「ギターもったいないから持っていきなよ。暇つぶしにもなるよ」と
当時付き合っていた人に言われ、まぁそれもそうだなと、
やすやすとギターを抱え上京。
そして大学に入ってからも成り行きで同級生とバンドなんて組んじゃって、
それも最初は暇つぶしのつもりが、なんかどんどん自分ばかり熱が入っちゃって…
「もっとちゃんとやりたいかも」と思った矢先にまた出会いがあって、とんとんとん…
バンドに夢中になっちゃって、
ギターを持たせてくれたその彼のことも面倒になっちゃってどんどんどん。


気づいたら歌っているという自分でもよくわからない状況になっている。
これには「美大に行かせたんじゃなかったっけ・・・」と両親も仰天している。
まぁただ歌うというのは、私にとってあれだけ好きだった絵を描くことよりも面白い。
だって好きなのに全然うまくいかないんだもん(笑)


歌っていると多くの奇跡に遭遇する。
とても運命的…ドラマチックで、予期もしないことが次々起こり、甲斐がある。
波は絶えず、嵐も多いが虹も出る。
多分、歌うことに現在の自分の人生の底辺と天辺があるんだなぁと感じている。
現在キャリアウーマンとは対極の位置にいるが幸せである。
今後の目標は出来上がったCDを持って、誰これ構わず
『いやぁ、私いま音楽やってるんです。歌ってるんです。』
と自信を持って言えるようになることである。


読んでくれてありがとう!!